「受け入れられた者」 08.01.20
ローマ14:1〜12
キリスト教は個人の信仰ではなく、教会という共同体の一員と
なる信仰です。その教会には、自分だけでなく、実に多様な
人たちがいます。神さまがその一人一人を招き、受け入れて
おられます。
2000年前の教会でも、神さまは多様な人を招き、受け入れて
おられました。その教会で、食べ物のことが問題となりました。
当時、異教の神に捧げられた肉が市場に出回っていました。
教会に、そのような肉を汚れたと考えて一切肉を食べない
ようにした人たちがいました。
一方、異教の神など架空の存在なのだから汚れるはずが
ないと考え、自由に肉を食べる人もいました。残念なことに、
互いに相手を非難し、裁きあうという事態になっていたようです。
共同体である以上、考え方の違いは生じます。それは、食べ物の
事だけではありません。
ある教会の神学生は、礼拝ではスーツを着るように指導されて
いました。その教会は、神さまに招待されて礼拝に参加するの
だから晴れ着を着るべきとの伝統を持ってきた教会でした。
ただ、教会の指導の内容は、晴れ着の伝統を重んじるという
ことよりも、その伝統を大事にしている者の礼拝する心を乱さない
ように考えなさいというものでした。パウロは、市場の肉を食べても
何も問題ないと考えていましたが、そのことで心の乱れる人がいる
ことも知っていました。ですから、「兄弟をつまずかせないために、
肉を口にしません」と言いました(Tコリント8:3)。
教会は、互いに心を配りあうところです。「キリストはその兄弟の
ために死んでくださった」(15)、「神はこのような人をも受け入れ
られた」(3)からです。
ペトロは、外国人を兄弟として受け入れた時に、それまで気付け
なかった神さまの愛の大きさを知りました。信仰の深まりを経験し、
新しいペトロに変えられました(使徒録10章)。
私たちも、神さまが受け入れた兄弟姉妹との交わりの中で、
一歩一歩信仰の深まりへと導かれていくのです。